街の観光案内板 (JPEG 54.3KB)
発見

バート・フェスラウを発見? したのは、ほんの偶然からだった。
ホントはバーデンに泊まりたかったのだ。
モーツァルトの妻・コンスタンツェが
しばしば温泉療養に行ったというバーデンに…。
ところが、バーデンに行ってみると
夜遅かったせいかもしれないが、泊まれそうな宿がなかったのだ。
小さな町だから、一応、クルマで走れそうな街路はくまなく調べた。
だが、BAD(温泉というよりはプール)やクアハウスはいっぱいあるのに
カンジンの宿は見当らなかった。

ちょっと補足しておくと、ドイツ語の『Bad』は
たぶん英語の『bath』と同じ語源の言葉なのだが
英語よりも意味が広く、英語の『spring』に当る『温泉』もそうだし
『swimming pool』もドイツ語では『Schwimmbad』となる。

腹のことなど忘れて何かに没頭していて
気がついた途端、急激に空腹感に襲われるのと同じで
せっかく明日は泳げそうだと思ったのに
今さらウィーンに引き返すのもシャクだった。

こんなのも走っていた。(PUCHの原付)
かといって、次の目的地であるブダペストから
あまり遠いところまで行く気にもならない。
どうしたものか…と、ほとんどいつものクセでミシュランの地図を開くと
バーデンの真下に『Bad Vöslau』という地名があった。

『うーん、バーデンの隣でバート何とかか…。
きっと、こっちも温泉に違いない』…そう考えたボクは
地図を閉じるが早いか、バート・フェスラウ向かって走り出した。
完備した道路標識のおかげで迷うことなく
5分も走ると、もうそこはバート・フェスラウの町の入り口だった。

町に入り、道端にあるホテルやガストハウスなどの標識を頼りに
ひとつひとつ当ってみるが
真っ暗で、どう見ても営業中とは思えないものが2軒
標識通りに行っても場所がわからないものが2軒というありさま。

これ以上の深追いは、もしも全然宿がなかったときのバックアップとなる
ウィーンのホテルへの到着を遅らせ
結局、そっちもダメにしてしまう可能性があった。
帰りの道すがら、宿が見つかることを期待しつつ
ボクは、バーデン経由、ウィーン方向に引き返そうとした。

ホテル・ステファニー (JPEG 42.9KB)
夏とはいえ、8月末ともなるとホリディ・メーカーの姿はなく
午後10時をまわったバート・フェスラウの街には人っ子ひとり見当らない。
外気は冷たく、思わずウィーンの人肌のぬくもりが恋しくなる。
『もういいや、ウィーンに直行しよう』と考えたそのとき
さっきは標識に気を取られて見落としていた風変わりな建物が
暗闇の中に『ボー』っと現われた。不気味だった。

昼間、賑わっているところほど
夜、無人になると、なんだか薄気味悪いということはよくある。
深夜の学校なんかがその典型だ。
ここもそうだった。メインストリートと駅へ向かう道の分岐点にある
おそらく、昼間はこの町で一番交通量の多いロータリーに面した
見慣れぬ格好の、何に使うのだか見当もつかないラウンドハウス。
よく見ると、隣に『HOTEL STEFANIE』と書かれた建物もある。

ロータリーを半周したボクは
ホテルではなく、ラウンドハウスの脇にクルマを停めた。
泊まれるかどうかより、こっちが何なのかを確かめるほうが先決だった。
近づくと、それは、球場のスタンドの裏側とでもいうべきか
人が集まってくる場所特有の
壁に貼られた剥げかけのポスターみたいな感触の建物だった。

ラウンドハウス。 (JPEG 47.7KB)
意を決してクルマから降り
真ん中の入り口らしき開口部から中に入る。
と、その瞬間、真っ暗な中
それでも強烈に存在をアピールしていたのは
直径50メートルはあろうかと思える円形のプールだった。

プールのまわりを、ラウンドハウスから延びた
2階建ての回廊が取り囲んでいる。
プールの奥にも、まだまだ何やら
おもしろいものがありそうな雰囲気だったが
それは明日の楽しみにとっておこう…。

なぜか急に、とても満ち足りた気分になったボクは
ようやく、ホテル・ステファニーの呼び鈴を鳴らした。
さすがは『BAD』をその名に冠する町の
一等地に『デーン』と居を構えているだけのことはある。

外壁は風化し、客室も狭く、美しいとはいえないが
ひとつひとつの部屋には中庭に面したバルコニーがあるし
鉄骨、ケーブル、モーターなどが丸見えのエレベーターを見ても
相当古くから湯治客で賑わっていたホテルであることがわかる。

12〜13歳かな? (JPEG 20.1KB)
だが、これらはまだ、ほんの序の口。
朝食に案内されたレストランこそ
このホテルの過日の栄華を象徴するにふさわしいものだった。
何室もあるダイニングルームの一室一室は
それぞれ異なった趣味の調度品でまとめられている。
これなら、長期間滞在しても飽きることはないだろう。

一番外側の、メインストリートを見下ろすテラス形式の
細長い部屋で朝食をとったボクは、次に
その部屋に続くオープンエアのカフェテラスでコーヒーを飲みながら
在りし日のバート・フェスラウに想いをはせた。

ロータリーの真ん中にある噴水と
その横に並んで立てられたヨーロッパ各国の国旗が
背後の丘陵から下りてくるひんやりした風になびいていた。
その向こうでは、アイスクリーム売りのおばちゃんが
手押し車になったアイスボックスの横に座ってレースを編んでいる。

中緯度ヨーロッパらしく、コントラストを浮かび上がらせる斜光線。
その中では、どんなに小さな景色もみずみずしい生気を帯びて
フレームの中の主役になろうと存在をアピールする。

過ぎゆく夏を惜しむ人々。 (JPEG 50.9KB)
探索

“あぁ、いいな。すがすがしいな”と、テラスに座ったまま
この上なく贅沢な時間の過ごしかたを楽しんだボクは
何のためらいもなく一泊延長することに決め、主人にそう告げると
やっと、昨夜その発見に興奮した『BAD』に向かった。

ラウンドハウスの軒下では
ワインならぬぶどうジュースを飲ませる屋台が店開きしていた。
地中海から続くアルプスが平原の下に潜り込むこのあたりは
オーストリアワインの産地として知られている。
たぶん、その一番採りのおすそわけなのだろう。

もう完全に、ただの湯治客の気分に浸っていたボクは、それを注文し
いびつな形のグラスに入ったジュースを一気に飲み干した。
ぶどうって、食べ過ぎるとおなかが冷えるんだっけ…?

入り口でチケットを買いながら中のようすを観察する。
ゆうべ見た回廊が、どうやらロッカー付きの更衣室であるらしい。
カビネットに取り囲まれた空間には緑をたたえた大木が生えており
空の青さを映すように、例の円形プールが配されている。

中にあるカフェテラス。 (JPEG 57.2KB)
プールサイドにはベンチやビーチチェアが置かれ
おとなたちはたいてい、そのあたりに寝そべって
別れを惜しむかのように、夏のなごりの光線に身を委ねている。
カビネットで着替えを済ませたボクは、階段を下り
シャワーを浴びに行った。

予想に反して、その水は異常に冷たく感じられた。
たぶん、水温も低いのだろうが
それ以上に、シャワーでかき混ぜられる空気が冷たかったのだろう。
そのせいか、陽に当っている床石を踏んでも、ちっとも熱くない。

“プールに浸かるには、相当な覚悟が必要かも知れないAと
恐る恐る、つま先を水面に立ててみたが
心配したほどのことはなかった。
浸かってみると、外から見たとき以上に
泳いでいるおとなたちが多いのにびっくりした。

老いも若きもみんな、止まりそうなローピッチで
ただただ外周に沿って円く円く泳ぎ続けている。
水に含まれる物質の効能にあずかるだけではなく
こうして、ゆっくり、適度な負荷の中で全身を運動させるのが
こっちの湯治のありかたなのだろうか?

奥のプールとその周囲。 (JPEG 63.3KB)
ひと泳ぎした後、今度は、懸案の『奥にあるもの』を確かめに
そこに通じる十数段の石の階段を登って行った。
登りきったところでぶどうの棚越しにボクの目に見えたものは
背後のコロシアムよりもさらに魅惑的な
森の中に拓かれたハーレムの光景だった。

こちら側にも、プールはあった。
表のような、空の色を映した水色ではなく、かなり濃いグリーン。
見た瞬間に浸かろうという気持ちを萎えさせる、冷たそうな水。
右手には、小さなカフェバーと
その店先から延びる、緑の芝生に覆われたゆるやかなスロープ。
左手には、テラスとダイニングルームを持つレストラン。

しかし、何といっても圧巻は
これらを幾重にも取り巻きつつ森の中に消え入る
コンパートメントの群だった。
ダイニングルームの奥にはパーティが開けそうなラウンジも備わっている。

ふとした拍子にバート・フェスラウにやってきて
何とはなしに気になって覗いてみたところに
まさに隠れ家と呼ぶにふさわしい場所を見つけたボクは
ヨーロッパの広さと奥深さに圧倒される思いで
しばし呆然と立ちすくんだのである。

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