Good Old Days - The Emergence of the Japanese Racing Machines
デグナー追想

THE MEMORY OF ERNST DEGNER
文字をクリックすると該当ページへジャンプします。
THE MEMORY OF ERNST DEGNER
文字をクリックすると該当ページへジャンプします。







■1961年亡命、1962年スズキと契約

Ernst Degner
1961年(昭和36年)の世界選手権125ccクラスの個人タイトル争いは、第9戦を終わって、東独の2サイクル・MZを駆るデグナー (Ernst Degner) とホンダのフィリス (Tom Phillis) の争いで、デグナーの方が若干有利な状況であった。第10戦スウェーデンGPでは、デグナーが最初から飛び出し、独走のレースかと思われたが、序盤の3周目にクランクピン破損でリタイア。フィリスは不調で、やっと6位となる。

この結果、個人タイトルのゆくえは最終戦アルゼンチンGPに持ち越された。ところがデグナーは、スウェーデンGP後に亡命を敢行した。亡命すれば、もちろんアルゼンチンGPには出場できなくなる。しかし彼は、半ば手中におさめかけていた初の個人タイトルを投げ捨てて亡命したのである。そして、1961年の125cc、250cc両クラスの個人とメーカーの4タイトルは、ホンダが獲得することになった。

時を同じくして、デグナーの奥さんと幼い子供も、東独より西独への亡命に成功した。デグナーの友人?の車で、荷物箱に潜み、子供は睡眠薬で眠らせての国境検問突破だったとのことだ。小生も、1963年、1966年の2回、東ドイツGP参加のため、共産圏下の東ドイツに入国した経験があるが、国境における検問は非常に厳しく、デグナーの奥さんと子供が、よくも亡命できたものだと驚いている。全く命がけの脱出だったと想像する。

亡命に成功したデグナーとスズキとの1962年の契約交渉は順調に進み、11月1日に初来日にこぎつけた。交渉はロンドン駐在の松宮昭氏があたっていた。松宮氏は、もともとシェル石油に勤務していたが、ヨーロッパのレース事情に詳しく、スズキの1960年マン島TTレース初参加にともない、レース部門のマネージャーとしてスズキに入社した人物である。

デグナーは、来日するにあたり “オイゲン (Eugen)” という偽名を使っていた。この “オイゲン” の “ゲン” をとった “ゲンさん” というのが、いつしかスズキレースグループでの彼のニックネームとなった。今でも、元レースグループの面々は、彼のことを “デグナー” と呼ぶことはなく、“ゲンさん” である。

■“職人” デグナーならではのマシン造り

彼は、全ての面で “職人” だった。トラブルが発生しやすい2サイクルのMZレーサーを駆り、1960年には王者・MVアグスタを、1961年にはホンダを、ただ一人でおびやかした。その彼のマシンには、それなりの工夫がなされていた。キャブレターに取り付けられた特殊なチョークと、イグニッションをON/OFFさせる “キルボタン” と名づけたスイッチである。

レース中にこれらを使うことにより、デグナーは、敏感な2サイクルエンジンを “だましだまし” 巧妙に扱っていたのだ。まさに “職人わざ” である。1962年以降のスズキマシンには、これらが装着された。彼はまた、リヤーエギゾーストタイプに異常なほど固執した。1962年の125ccレーサーは、デグナーのマシンのみがリアエキゾーストタイプでスタートした。

小生は、あとになって、リアエキゾーストのメリットを身をもって感じた。2ストロークエンジンの出力は、エキゾーストの形状に大きく左右されることは言うまでもないが、実験用エキゾーストを作るのに非常に楽なのである。そして、実験で決定した諸元を元に車載用を作るさいにも、性能面で大きな誤差なく作ることができるのだ。当時のデグナーが、どのような理由でリアエキゾーストにこだわったのかは知らないが……。

また、デグナーの推奨により、RT62には西ドイツのマーレ (Mahle) 社の鍛造ピストン素材を使用することになった。当時、日本には鍛造ピストンを作っているメーカーはなかった。その後、住友金属に開発をお願いし、RT63からは日本製を使うことになった。

1962年のフランスGPとTTレ−スの間の5月15日に、小生は松宮氏とともにパリを発ち、西独シュトゥットガルトのマーレ社を訪問したことがあった。亡命後、フランス/西ドイツ国境近くに居をかまえていたデグナー宅に立ち寄り、奥さんや子供たちに会ったのもこのときだ。

さらに、コンロッド大端のリテーナー(ローラー保持器)も、デグナーの推奨により西独INA社製のジュラルミン保持器を使用することになった。しかし、1962年のレ−スでは、この保持器の亀裂多発で大いに苦しめられ、オランダGP以降、宇都宮機器のアームスブロンズ製保持器を使用することになり、耐久性は向上した。

その他、デグナーは日本製マグネトーの使用を嫌がり、自分だけ、西ドイツで自ら調達したマグネトーを使用した。以上のように、当時の彼は、日本製部品を信用していなかったのである。確かに当時の日本の工業製品の評価は、世界的にその程度のものだったと思う。

デグナー初来日の折り、小生は、通訳とともに丸2日間、社内の教育館(取り壊され、現存しない)の小部屋でマシン作りに対する彼の要望を聞いたり、打合わせをしりした。そのとき、デグナーに対して、“気難しい、頑固な男” という印象を持ったのを、今でも懐かしく思い出す。

デグナーはメカニックの面でも “職人” で、重要部品の仕上げやエンジンの組み立てなどに関して、最初の頃はスズキのメカニックを信用せず、全て自分でやらなければ気が済まない男だった。このため、メカニックとよくぶつかったものだった。このような彼の絶大な信用をかちとったのは、スズキで “メカニックの神様” といわれた神谷安則氏である。彼はデグナーのスズキ在籍中、ずっと専属メカニックをつとめることとなった。

■50cc個人タイトル獲得と鈴鹿での2度の転倒

1962年のレース成績は、初めて世界選手権レースに加わった50cc部門で、第3戦のマン島TTレース、続いて、オランダ、ベルギー、西ドイツGPと4連勝を飾り、個人タイトルを獲得。スズキにメーカー選手権をもたらす原動力ともなった。11月には、竣工した鈴鹿サーキットで “全日本選手権レース” が開催され、50ccレースでトップを独走し、素晴らしい走りをみせたが、転倒リタイアした。彼が転倒したカーブは “デグナーカーブ” と命名された。

1963年は、アンダーソン (Hugh Anderson) の台頭、デグナーの不運も重なり、50、125で各1勝しかできなかった。両クラスとも、アンダーソンが個人選手権を獲得し、メーカータイトルをスズキにもたらした。最終戦の日本GP(鈴鹿)で、デグナーは初登場の250ccスクエア4気筒水冷マシンを駆ったが、1周目、第1コーナー出口で転倒してマシンが炎上。不運にも大火傷を負ってしまい、年末近くまで浜松で入院生活を送った。



気を失っていたデグナーは、大火傷を負ってしまった


1964年は、第11戦のイタリアGPから復帰。第12戦(最終戦)・日本GP(鈴鹿)の125ccで優勝し、健在ぶりを示した。1965年は、50ccではアメリカGPとベルギーGP、125ccではアルスターGPの計3回優勝を飾ったが、第12戦・イタリアGPの125ccで転倒骨折し、最終戦の日本GPには参加できなかった。1966年は、海員ストライキで開催の遅れた第10戦のマン島TTレースに50ccで復帰したが、4位にとどまり、これを最後にレースを引退し、スズキを去った。

■引退後のデグナー、そして不慮の交通事故死

スズキのチームを去ってから10年の歳月がたった1976年の9月、デグナーは、西ドイツのスズキの販売代理店 “スズキ・ドイチュラント社” の認証課長として来日した。そこで、元のレースチームのメンバーが集まり、盛大な歓迎会を開いた。

1978年には、小生が二輪車のヨーロッパ市場調査・新機種企画調査&打ち合わせのため “スズキ・ドイチュラント社” をも訪問。半日間デグナーといろんな話をした。深く印象に残っているのは、奥さんと離婚したことである。共に命を懸けて、東独から亡命した夫婦だったのに……。原因は1963年の日本GPでの火傷がルーツと考えられる。ハンサムだった顔にも火傷のあとがひどく残り、このためデグナーの性格がひずみ、すべてヒガミっぽくなり、徐々に夫婦仲がうまくいかなくなったのだと思う。

それから2〜3年後(正確な年月は忘れてしまったが)、アウトバーンでの交通事故により、デグナーはこの世を去ってしまった。2サイクルマシンの天才ライダーと言われたデグナーだが、決して幸せな人生ではなかった。