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50・125ccダブルタイトル獲得 1963年は、50cc、125ccの両クラスでメーカーと個人の両ワールドタイトルを獲得し、我々レース担当者はもちろん、スズキグループ全体が歓喜にわいた年だった。10月4日には浜松市体育館で、盛大に “世界選手権獲得祝賀会” が行われた。この時点では、125ccのメーカー(スズキ)と個人(アンダーソン=Hugh Anderson、スズキ)の両タイトルは決定していたが、50ccはどちらもまだ決定しておらず、2日後の10月6日のアルゼンチンGPでスズキのメーカータイトルが、11月10日の日本GPでアンダーソンの個人タイトルが決定した。 1963年のRM63は、前年のRM62とボア×ストロークは同じだが、エギゾーストはフロント方式からリアに変え、気化器口径をM20からM24にアップし、ミッション段数を8段から9段に変更し、出力も大幅に向上させた。2ストロークエンジンの出力は、言うまでもなく、エギゾーストパイプの形状が大きく影響する。リアエキゾーストは、実験を進めるうえでもやりやすく、フロントエキゾーストにはない大きなメリットがあった。 第1戦のスペインGP(14周)では、アンダーソンは7周目にトップのアンシャイト(Hans Georg Anscheidt、クライドラー)を抜き、11周までトップを維持した。しかし、その後再びアンシャイトが先行し、僅差で優勝。アンダーソンは2位。3位はデルビ(Derbi)のブスケス(J. Busquets)、4位に森下勲。残るスズキのライダーは、デグナー(Ernst Degner)、伊藤光夫、市野三千雄ともマグネトートラブルでリタイアした。
第4戦はマン島TTレース。昨年は2周だったが、今年から125と同じく3周のレースとなった。1周目の順位はデグナー、伊藤、アンダーソン、アンシャイト、森下、市野で、デグナーと伊藤の差は僅か0.6秒。50ccクラス初出場のシュナイダー(B. Schneider)はピストン焼き付きでリタイアした。2周目の順位も1周目と変わらず、デグナーと伊藤の差は僅か3秒。そして最終ラップに入ると伊藤はペースを上げ、スタートから9.5マイル地点のグレン・ヘレン(Glen Helen)で、スタート時差を修正するとトップに立った。それから間もなく、デグナーは、コンロッド大端ベアリングの保持器破損によりマシンが不調となり、脱落した。あとで分解チェックしたところ、伊藤、アンダーソン、森下の3人のエンジンもピストンリングが膠着(こうちゃく)気味で、危ないところだった。
小生は、この時、留守部隊として日本に残っており、マン島には行っていなかった。留守部隊の時は、いつも、ヨーロッパとの時差を見込んでレース開催日の夜に会社の守衛所に出かけ、AP通信や選手団からの電報の入電を待っていた。当時はまだ国際電話など簡単につながる時代ではなく、電報の時代だった。レース結果が入電すると、勝とうが負けようが故・鈴木俊三社長の家に電話で報告することになっており、結果が悪い時には、電話するのに気が重く、つらかったことが今も記憶に残っている。そして、故・社長は、どんな夜中にでも、すぐに電話に出たことを覚えている。
余談だが、翌15〜16日(土・日)はレース担当の “研究三課” の慰安旅行だったため、みんな湯河原、箱根方面に出かけていた。しかし、何があるかわからないので、小生は参加を取り止めていた。日記には、当時の鈴木実次郎常務(前社長)より金一封、鈴木修部長(現社長)より洋酒の差し入れがあったと書いてある。 マン島TTに続く第5戦のオランダGPでは、デグナー、アンダーソン、市野、森下。伊藤が1、2、3、4、5位で完勝。アンシャイトは6位だった。第6戦のベルギーGPは、スズキの5台とアンシャイトが一団となってのレース。最終ラップのヘアピン(ゴール手前500メートル)にはアンシャイトがトップで入ったが、森下とデグナーがアンシャイト抜き、森下、デグナー、アンシャイト、アンダーソン、伊藤の順でゴール。森下が初優勝を飾った。 |
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第7戦のフィンランドGPでは、トップを走っていたアンダーソンが転倒。結果はアンシャイト、伊藤、アンダーソン、森下の順。第8戦のアルゼンチンGPでは、アンシャイトが公式練習中に転倒し欠場。結果はアンダーソン、デグナーの1、2位で、メーカータイトルは2年連続でスズキに決定したが、アンダーソンとアンシャイトの個人タイトル争いは最終戦・日本GPに持ち越しとなった。
これでアンダーソンの個人タイトルが決定した。しかし、どうしても鈴鹿では勝たせてもらえない。どうしてタベリのマシンのみが飛び抜けて速いんだろう。なお日本GPには、空冷2気筒・ピストンバルブのトーハツ(ボア×ストローク:φ31×33mm)で、シモンズ(Dave Simmonds)と安良岡健が出場した。 かくして、前年に続き1963年も、メーカー、個人タイトルとも獲得して終了したが、クライドラーで孤軍奮闘のアンシャイトにひやひやさせらた1年だった。 ■125ccは圧倒的速さで初の両タイトルを獲得 1963年の125ccマシンは、前年の鈴鹿での第1回全日本選手権でアンダーソンが走らせた試作車(空冷2気筒・フロントエキゾースト)のRT63Xをベースに新開発したRT63(空冷2気筒、ボア×ストローク:φ43×42.6mm、8段ミッション、リアエキゾースト)だった。そして、その圧倒的な速さにより、メーカー、個人(Anderson)の両タイトルを獲得した。
第1戦のスペインGPは、ホンダ2気筒マシンのタベリ、レッドマン(Jim Redman)、高橋国光が1、2、3位。4位はEMCのインチレー(P. G. Inchley)。公式練習タイム1位のペリス(F. Perris)は1周目にコンロッド大端焼き付き、アンダーソンは5周目までトップグループにいたが、これまたコンロッド大端焼き付き、デグナーは1周目EMCのエイブリー(R. Avery)の転倒に巻き込まれ転倒と全滅だった。 第2戦の西ドイツGPは、デグナーが独走優勝。2位がアンダーソン。MZのツァボー(L. Szabo)とシェファード(A. Shepherd)が3、6位。ホンダのタベリと高橋が4、5位。第3戦のフランスGPは、アンダーソンが独走優勝。ペリス、デグナーが4、6位。レッドマン、タベリ、ロブが2、3、5位。
トップスターターのロブに続き、10秒後にアンダーソン、20秒後にレッドマン、30秒後に高橋とタベリ、40秒後にデグナーとシュナイダー、70秒後にペリスがスタートした。1周目中間点のサルビー(Sulby)での順位(スタート時差修正済み)は、アンダーソン、デグナー、ペリス、タベリ、レッドマン、シュナイダー、ロブ。1周目終了時の順位は、アンダーソン、デグナー、ペリス、タベリ、レッドマン、ロブ、シュナイダー、高橋。高橋のマシンは不調らしく、彼はエンジンを指差しながら2周目に入っていった。
ペリスは、40秒前にスタートしたタベリに追いつき、追いかけ、ゴール寸前でタベリを抜いた。ペリスはまたレースタイムではデグナーをも抜き、2位入賞を決めた。3位はデグナー。続いてタベリ、シュナイダー、レッドマン、ロブ、高橋の順。トーハツのシモンズは15位(87分37.8秒)だった。かくしてスズキは、アンダーソン、ペリス、デグナー、シュナイダーが1、2、3、5位に入るという完全優勝を果たしたのである。(マン島TT・125ccクラスでスズキが優勝したのは、これが最初で最後である)
第8戦の東ドイツGPは、アンダーソンが独走優勝。シュナイダーは最終ラップまで2位だったがエンジン不調となり3位。MZのシェファード、デュフ(M. Duff)、ムジオール(W. Musiol)が2、5、6位。タベリが4位。ここでメーカータイトルは初めてスズキに、個人タイトルもアンダーソンに決定した。 第9戦のフィンランドGP(28周)はアンダーソンが優勝。ペリスは17周目までアンダーソンとトップを争ったが、コンロッド大端焼き付きによりリタイア。20周目に3位だったシュナイダーもマシントラブルによりリタイア。タベリ、レッドマンが2、5位。MZのシェファードとツァボーが3、4位。 第10戦のイタリアGPは、タイトルの決まったスズキは不参加。タベリ、レッドマン、高橋が1、2、3位。第11戦のアルゼンチンGPにもスズキは不参加。レッドマンが優勝。 最終戦・第12戦の日本GP(20周)には、ホンダの125cc・4気筒マシンが初登場した。レースは5周まで、アンダーソンとレッドマンのトップ争いが続いたが、6周目にアンダーソンのエンジンの調子が落ち、後退。あとはペリスとレッドマンの激しいトップ争いとなり、最後はぺリスが4秒差で優勝を果たした。なおデグナーだけが、6月下旬に試作手配し、開発を進めていた水冷エンジン(RT63A)で出場し3位になったが、まだまだ開発途上のものだった。なおトーハツ(ボア×ストローク:φ43×43mm、空冷2気筒、ピストンバルブ)で、本田和夫、シモンズ、安良岡が出場した。
第2戦の西ドイツGPから第9戦のフィンランドGPまで破竹の8連勝を飾ったが、西ドイツGPで優勝したデグナー車、オランダGPで優勝したアンダーソン車をレース後、分解してみると、大端ローラー保持器(リテイナー)はすでに破損しているといった状態だった。このため、1963年後半は、コンロッド大端部の焼き付き対策に明け暮れることになった。 宇都宮機器(株)やNTNの協力を得て、非常に多くの種類のベアリングの試作とテストを重ね、保持器の材質にBeCu(ベリリュウム・カッパー)を採用することで、とても万全とはいえないが、まずまずの成果を得ることができ、最終第12戦の日本GPではこれを使用した。
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